【SUGAR先生 サビアンと和歌の宇宙】
「詩人とは、自ら感じ、あらがひ、祈る人たちだった。自ら感じ、あらがひ、祈ることが詩であつた。それが単純で、力強く純粋となることであつた。立原道造」
【言葉とイメージの怒涛の講義】
時間が少なすぎでした。
おそらく5時間ぐらい、いや、丸一日あっても良い講座だったのではと直後の感想です。もっと聴いていたかった。
切り口は二十四節季と和歌で始まり、風景や兆しから汲み取るエモーショナルやひらめきや温度や霊感、視覚で「見る」のではなく、第六感、や幻を汲み取るような【見ゆ】についての素晴らしいアプローチと解説による噛み砕きと、理解をサビアンと絡めて落とし込んでいく展開。講座の表面に見えている以上に、氷山のように大きく広がる知識のボリューム感、素直にSUGAR先生、尊敬しました。(時間が足りずに日の目を見なかった資料もたくさんありましたね。)
「言葉」は一方向から見たら平坦なもので、それを特殊な光を当てるとホログラムが浮かび上がって「見えて」くる=【見ゆ】というイメージの塊でもあると気が付かせてもららえたことは大きな喜びです。
地球が太陽を1年かけて巡る周期(公転)の通り道1周360度を12分割したものが「牡羊座~魚座」1周360度を12分割したのでひとつのサインは30度。
その30度をさらに30分割し、1度ずつ意味が振当てられているのがサビアン度数。
透視能力者によりチャネリングしてつけられたその1度1度に込められた言葉は多層的に意味が含まれていて、そのまま「読んで」も意味が不明瞭であったり平坦であったりします。
深く物事を観察し、観察して言葉でスケッチし、言葉を精査し、一篇の詩にすることは、霊的(チャネリング)である瞬間と親和性が高くても当然であると思えるのです。
ただ、「読む」だけでも「見る」だけでもだめで、
そこからほの明るく立ち上がるホログラムを感知することが大切になる。奥行きある解釈と霊的なひらめきはどこまで訓練で培うことができるだろうかと思いつつも、真摯に「文字」「言葉」「音」に向かい合うしかないのだろうな、と思いました。
【プリミティブな時代のうた】
特に近代化、現代のようなプリミティブさとはまだ分裂していない時代の歌であればなおのこと、その言葉は俳句でも和歌でも謡でも霊的な波を持っていたという説を唱えたのは民俗学者の谷川健一氏です。
谷川健一氏は「古代歌謡と南島歌謡 歌の源泉を求めて」(春風社)で以下のように語っています。(以下引用)
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折口信夫は歌は日本人にとりついたゴースト(魔)であると言ったが、それならばそのゴーストの正体は何か。そのことについて歌の起源にさかのぼって考察してみたのが本書である。
まだ大和朝廷が日本列島を制覇する以前、列島にはさまざまな人々が暮らし、互いに争っていた。人間だけでなく、動物や石ころまで自己を主張し、自分を防衛するために他者を侵害することにつとめた。そのときの最強の武器は、呪力をもった言葉であった。
言葉によるたたかいや問答のやりとりは、呪言から呪謡へ呪歌へ発展をとげ、ながい試行錯誤を経て『万葉集』に見る歌の形式にまでたどりついた。
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この本の中には「集合的無意識」や「原初社会における万物の親和力の発源」や小林秀雄氏の言葉の引用として「俳句というのは実に妙な社会的生物」「共同体の詩」という表現や、万葉の時代に栄え、そのあとは日本和歌史の中で一度は途絶えてしまうおおらかで烈しく、物悲しい土の匂いのする歌の伝統は芭蕉が門人たちとの連句の中で再発見したとも言える、と言った表現があり、今回の講座の俳句ともリンクし想起されたのです。原初的な情景の中であらわれる言葉の有機的な存在感や、呪力、霊力を持った言葉。
俳句や短歌、サビアンに流れているその霊力の匂いや色。
四ツ辻であったり、逢魔時であったり、天からの光の梯子であったり、虹であったり、蝶の羽や切り出さされた氷、きらめく川の流れから、 幾つもの層になった世界の裂け目 のそこここに遍在する「兆し」を見過ごすことなく感知し、言葉に落とし込めるのであればとても美しく、現代と古代を繋ぐ緒のような命の脈動を感じることができるはずです。
また、 偶発的に立ち上る卜式の現れの中に言葉を見たり、オラクルカードやタロットは、こちら側から能動的に【見ゆ】を生み出そうとする魔術的な行為なのだと位置づけると、すごく納得できるような気がします。
単なる言葉が、文字が、図形が、ホログラムのように浮かび上がり複雑な存在感をもって揺らめきながらあらわれる。
ホラリー占星術の卜式としての瞬発力の魅力と、シュガー先生の講義から学んだ[見ゆ]の概念や感覚を合わせたら、ものすごく美しい、俳句的な事象の汲み取りができるような予感がします。 言葉にある力をより感じとる訓練をしたくなり、今、私の机の上は読みたい本で山ができ、外を歩いていてもついこのことを思い出さずにはいられないのです。